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GARO-VERSUS ROAD- #11「LAST STAGE」


南雲さん、もう、これ精神、書き換えられてない?性質もいろいろと変わっているし、やっぱり、あの時、シュカにやられたんだろうなー。って思わずにはいられないよ。
しばしば、生き残った者たちにしかわからない共有財産的なものって、こういうのあると思うんですよね。
南雲とクオンとか、そうなるとは思わなかったもん。
南雲は、最初、スッゲー嫌な奴な部分合ったけど、理解してから、今までと同じではいけない、ある種、彼の最初にやらかしてしまった命に対する贖罪、ようは、クオンの星合に対する感情と似ているんですよね。ただ、彼の場合は、まさか、こうなるとは思っていなかった。それでいて自分の欲求で殺してしまった者たちに対する償いの心っていうのが出てきてしまったのかもしれない。
こういう極限の場所における……
善人になる部分は、ある種、人の本性と言うのが出るのかもしれない。目の前の死を理解することで初めて自分と言う人間を見つめ直し、どうするべきなのか。
それを考える一つのきっかけと言うのは、実は当たり前のものなのかもしれない。余命宣告された人が、志を意識すると色々と静かになったり、自棄になったりする人とかいるのって、そう言うことだと思うんですよね。
ある種、それが「死」がもたらす福音と言うのであれば、それはそう言うことなのだろうと思う。
貴音は、貴音で、もうフルボッコや市。骨を折られたし。血をドバーするしで、容赦ネーナ(・ω・)……ってか、貴音ことタケシ、親にまで望まれていなかった子供で、しかも、いじめを受けて、人生の存在そのものがハードモードと言うか、そういう感じがしないでもない。妙に、あいつに親近感のようなものを沸くことがあったんだけど、「あ、そういう部分か。」っていうのはやっぱり思ったりはする。タケシではなく、貴音としての生きた証が彼の存在意義、そのものだったんだなーと。彼にとって、タケシと言う名前っていうのは、存在、そのものが忌むべき存在。
あのぬいぐるみ自体が、過去の自分であり、でも、貴音になりきれない、彼の一種の弱さ、それでいて、同時に、母親に愛されたかった自分の本心でもあったのだろうと思えて来る。
大事なものが失われてから気づくもの。
デスゲームでありつつ、この作品のメッセージは「死」と言うものを考えさせるものになっているのかもしれない。
それが、死を通して思いを受け継ぎ、力に帰る魔戒騎士の物語であった牙狼だからこそできること。
相手を斬る瞬間に、この歌詞の意味を知ると結構、ヤバい意味深な感じと熱いものあるね。
毎週、なんやかんやですっごい楽しみな話だったからさ。なんやかんやで最初から見直すと、実は、物凄い牙狼らしい話でもあるという。
ああいう極限状態に追い込まれる状況の中で今まで何も接点が無かった者たち同士が、探り合いをする中で自然と友情が芽生えてしまうような感覚っていうのは賛否両論な感じはするけど、ああいう状況を共有できるが故のどうにもならない感情っていうのは交わざるを得ないのかもしれない。
マジモンのデスゲームと言う極限環境の中で生まれてしまう経験した者たちにしかわからない共有される危機感や、感情と言うのは輝かしさと儚さと残酷さが混沌として混ざり合ってるね。
ついでに、あのゴーグル、かぶらなければ良くね?て話だけどシュカがかけたくなる魔術をかけているらしい。
来週、最終回だけど、どうなんだろ。

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