

アイカツフレンズの内容を半々くらいに見ているところで、あれです。完全に、こっちで目がさえました。
永遠に繰り返される虚無なる再演。それがひかりの選んだ、華恋を、舞台少女たちを守るための「運命の舞台」。だがその公演を、舞台に飛び入り参加した華恋が真っ向から否定する。「スタァライトは必ず別れる悲劇」。運命を変える、最後のレヴューが始まる。

ひかりは運命の舞台どころか、運命のオーディション自体を完全に否定する存在だと思っているので、それがイレギュラーたる、華恋の役割だとも私は思っています。
ひかりの運命の舞台って「星摘み」を見ていると、あれですね。
「賽の河原」そのものだね。
「童子の戯れに沙を聚めて仏塔を作る」
所謂、この世界は贖罪をする為の地獄そのものという訳なんですかね。
帰命頂礼世の中の 定め難きは無常なり。
多分、ひかりの現状のモチーフはこれ。
元ネタは石を積んでは崩され、石を積んでは崩され、これをいつ果てるともなく繰り返す。
所謂、元ネタは親のを苦しめるという五逆罪の造ってしまったから。
ある種の、ひかりが誰かに与えた苦しみと言うのは、これに近いのかもしれない。
この死してなお、与えられる苦しみ、ある種、舞台少女として大事なモノ、創造主に歯向かうに近いことをやらかした、ひかり、その原罪から救うための存在としての愛城華恋。
運命の舞台を否定することで、運命を塗り替えるという分かりやすいけど、実に、これまでの展開が熱い百合の流れ。

ここ、凄い神無月の巫女感ある。
やはり、少女歌劇レヴュースタァライトは、戯曲スタァライトを越える物語だったか。
21世紀の黎明期に百合作品に革命を与えた「神無月の巫女」から、10年以上経った平成最後の夏に「少女☆歌劇レヴュースタァライト」が更に革命を起こした。






正に、神無月の巫女の二人の運命を少女達だけの力で乗り越えたような、そういう作品だった。
最後の最後まで鳥肌が立つ。
言葉が見つからない。


ただ作中の言葉を利用するなら、まさ……
「スタアライトされた。」これだよ。これなんだ。
っていう、
姫子と千歌音をマザーとするような、華恋と、ひかり。
神無月の巫女も運命を乗り越えるという作品ではあるんですが、あれは、まだまだオロチが潜んでいるてきな、そういう含みを持たせた、降伏に見えたようで、ちょっと後味の悪さを残しつつも、それでも、もう辛さも痛みもない純真な二人の愛があれば……って物語なんですよね。最終回の意味は。
んで、少女☆歌劇レヴュースタァライトは、正に、それなんですよ。
それなんですよね。
そして、全てにおいて、神無月の巫女を現代的にブラッシュアップしたら、こうなるだろうというのが物凄く伝わってくる。
神無月の巫女は、男を介した、あの手伝いがあるから、その運命の超越と言うのがあるんですが、運命の超越は姫子と千歌音の二人だけの力ではないんですし、まだ神の運命に翻弄される切なさがあって、でもこれからの二人の愛で乗り越える含みを持たせた、あのラスト。
少女☆歌劇レヴュースタァライトと言うのはそこに男は介入しない、少女たちだけの力、少女の持つ、少女の持つ輝きで運命を乗り越えたことに凄い意味がある。
それを意味するのが、あの神を気取ったキリンの存在の驚嘆ですよね。
「これが!!」って、あの驚嘆こそ、自分の中で思い切り、鳥肌が立って「少女歌劇レヴュースタァライト」と言う作品が百合作品として平成最後の夏に革命を起こした。そういうことなんですよ。
まどマギ、ゆゆゆと来た、翻弄される少女たちの運命の超越、それを完全にハッピーエンドとして乗り切った、この「少女☆歌劇レヴュースタァライト」と言う作品なわけですよ。
強く運命を共にする舞台少女達の意思が、舞台少女達だけの意思で、そして、共に運命と夢を享受すると誓った、ひかりと華恋の運命すらも超越する二人の抱く「夢」の強さ。
これが全身を射抜くほど輝いている。
だからこそ、少女☆歌劇レヴュースタァライトと言う作品は最も美しいのです。
だからこそ、だからこそ、少女☆歌劇レヴュースタァライトと言う作品は、最も美しいのです。
大事なことだから、二回言いました。
また、それが良く解るのが最終回の戯曲スタァライトの、あの結末の改変、そのものですよね。あれをモチーフとした運命のオーディション、その全てを超越し最後はかつての経験から虚無に囚われた、ひかりと、それでもと手を差し伸べる愛城華恋の夢の強さ。虚無すらも光に変える美しさ。
一見、ここまで見ると神無月の巫女なんですけど、でも、ここで華恋の力強さ、運命を変える程の眩い光、その意志が「少女☆歌劇レヴュースタァライト」は、二人の翻弄されるであろう神の運命を塗り替え、そして乗り越えることに華恋の強さ、虚無すらも光に変える美しさがある訳です。
この運命の再生産が、愛する人の中に巣食う虚無を光に変える力が何を意味するか、それは神無月の巫女の系譜として続く来栖川姫子系統の少女の現状の最終進化の形として愛城華恋は何よりも美しいという事、その最もたる形として昇華された美しさが、そこにある訳です。





悲劇的な結末すらも塗り替える運命を超越した愛城華恋の強さ。
華恋という太陽によって再度、照らされ虚無から抜け出した、ひかりの美しさは、まさに現代の姫子と千歌音。
この手の運命の悲劇の美しさと言うものは、それを享受する事でなく愛する人と一緒に乗り越えることであるというメッセージ性なんですよね。
ある種、だから、神無月の巫女から続く、少女達のさ。
こうAKB0048の凪沙と智恵理の美しさ、そのものですよね。
ヴァルキリードライヴの魅零とまもり。
スタァライトの華恋と、ひかりは、まさに、これなんですよね。
二人に影響された舞台少女達が華恋を送り出すと言う王道展開をした後に、翻弄される運命、神の存在、世界の理、そして原罪すらも超越する、この手の百合アニメがやらなかったことを二人の関係をちゃんと描き、昇華する。
だから
「少女☆歌劇レヴュースタァライト」は
何よりも美しい。この舞台に出ることが罪。
許されること、贖罪は敗北すること。
既に、この世界に入り込んだ時点で、全ての舞台少女は罪人であるというのも悲劇そのものでしょう。
しかし二人に影響された舞台少女達が華恋を送り出すと言う王道展開をした後に、翻弄される運命、神の存在、世界の理、そして原罪すらも超越する、この手の百合アニメがやらなかったことを二人の関係をちゃんと描き、昇華する。
だから「少女☆歌劇レヴュースタァライト」は何よりも美しい。
原罪と言う名の己の中のエゴを認めて、だから前へと突き進む強さ。
もし、それが罪だというのなら、全ての舞台少女が持っている。
だからこそ、一人だけで背負わないで、苦しまないで自分にももっと頼ってほしいという、部分、一緒に貴女と罪を背負って生きていく覚悟も見えます。
愛する人に奪われることを何よりも望む。
奪われても再生産ができる。
愛する貴女となら。
あの舞台の上で語られた、ひかりの言う罪って言うのは人の中に眠るエゴそのものですよね。
現実の舞台でも、オーディションでしのぎを削って掴み取るもの。しかし、そこでは主役を輝かせるために様々な役者たちが輝くように、舞台という場所において輝きを奪うのは罪ではない。
その証拠に、彼女達はエピローグで、その役を演じる為に輝いているのですから。
それが、再生産、それは彼女達、舞台少女だけに許された特権とも言えるかもしれません。
でも、それは自分の中にも自分と戦ってきた舞台少女達の中にもあって、一度、ドロップアウトしかけて苦しみを知った華恋だからこそオーディションに参加することが罪だと認めることが出来る。しかし、そこには、常に、ひかりと言う己の生きがい、そのものが、そこにあるんですよね。
そのエゴが罪であるからこそ、ある種の許されない行為。
掴めなかったから、そのキラメキを全て奪おうとして頂点に立つこと、その愚かさ、ある種、華恋を特別視していたかもしれないからこそ、ひかりは、それを忘れていたんだね。そこにおいても華恋が全てにおいてイレギュラーだし、また、彼女と接してきた者達が、これ以上にない輝きを持っていたからこそ、ひかりは余計に華恋から輝きを奪うことが、それを奪うことを罪だと思ってしまったんだろうと思うんです。
舞台少女は、そう、華恋を見ていれば解るように何度も輝くことが出来るんです。
ひかりが華恋にとって運命であり、運命を三度も失う苦しみを味わったからなんだろうね。
一度目は幼いころの別れ、二度目は真矢クロという存在の大きさが夢を腐らせ、三度目はオーディションにて。
もう四度も失いたくない華恋の必死さから伝わる美しさと、ひかりの為に動く力強さ。
何度も輝きを失いながら、愛する人がいたから、
「奪って良いよ。私の全部。奪われたって終わりじゃない。無くしたってキラメキは消えない。舞台に立つたびに何度も燃え上がって生まれ変わる。」これを身を持って体現したのは華恋そのものなんだよね。そもそも第一話において輝きを失っていた華恋が、こうして輝いたから。そして、ひかりも、それを体現している。その傍にいるのは、常に愛する人、華恋であれば、ひかりであり、ひかりであれば華恋。
輝きは取り戻せる。
だからこそ、華恋は、ひかりに「自分の全部を奪って良い」と強い意志を持って言うことが出来たんだ。
それは、ひかりも体現している。それを思い出したからこそ、ひかりは虚無から解放された。
そしてキラメキの原動力は常に愛する人、華恋であり、ひかりである。
華恋の「ひかりちゃんが、私の掴もうとしていた星」
ひかりの「華恋が、私の求めていたスター」この二つの台詞に「少女☆歌劇レヴュースタァライト」、そして舞台少女のキラメキの根源の全てが詰まっているといっても、それは偽りではないでしょう。
そして、何気に、この結末のヒントはオープニングの歌詞にもあったんですよねー。
そう思います。
奪われても、そこに夢があれば何度も輝ける。
2話で純那が言ったとおり、一度で終わりじゃない。
これが舞台少女としても、そうですが、人としての人生、そのものでもあると思います。
これを、命ではなく、舞台少女にとって大切なキラメキという言葉で教えてくれたわけです。
二人に影響された舞台少女達が華恋を送り出すと言う王道展開をした後に、翻弄される運命、神の存在、世界の理、そして原罪すらも超越する、この手の百合アニメがやらなかったことを二人の関係をちゃんと描き、昇華する。
キリンは視聴者のメタファーであり、アンコールというのは、客が客席で舞台に出来る、唯一のアンサーでもある。それに対して生まれる情熱で舞台俳優と観客は一つになることができる。
華恋は観客に戻ったけど、再度、アンコールという形で舞台と観客席が一つになったことで、あの場所はすべて舞台になり、舞台に戻り、これを悲劇で終わらせてはいけないという華恋の情熱、そこの情熱にある根源が、神楽ひかりであるというのが泣けるじゃないですか。
そして、キリンは自分達のメタファーであるのなら、悲劇という結末が決まりきった世界から、彼女たちは、戯曲スタァライトを模した、このレヴューで何をどう選択するのか、ある種の悪役に近い立場に徹して神を気取ることで、悲劇でしかない物語に何を見出すのか。それが見たかったのだろう。
現実に、あのレビューの中で培われた舞台少女たちの友情から見てわかる。しかし、ある程度の優秀な生徒たちのぶつかり合いだけでは、化学反応が薄い。結局、愛城華恋という最も軽視していた少女がキリンの最も舞台に求めていたイレギュラーだったというのは結構、おもしろく皮肉的な結果だよね。
だから、大場ななのループを否定したのか。
戯曲スタァライトを模したレヴューの中で変わらない世界、戯曲の展開のままで終わる中で達観した存在になり果て大場ななのループの否定から新たな変化を望んだ結果。
キリン=視聴者という観客ならレギュラーに入るはずのない彼女が第一話で見せた再生産は、とても満足のいくものなんだろうなーって。
特撮ヒーロー的に言えばライバルなのか、味方なのか、よくわからない奴が降臨する図なんだろうね。
ひかりを呼び寄せることで、発生した予想外のイレギュラーの歓喜だったんだろうなー。あの考察めいたキリンの口調というのは。
あぁー、前々から、そう思っていたけど、やっぱり、そういうあれやなーと。ウルトラマンアグルが出てきた時のような心境ですよね。
ななの「同じ舞台ばかりで飽きたのかな?」って言うのは、間接的にキリンの心情のアピールよね。
舞台は生き物であるからこそ同じ舞台は二度とない。しかし結末はどれも同じようなもの。
オーブダークが面倒くさい特撮オタクなんて言われ方してたけど、キリンの立ち位置は、そういうものなんだろうと。
戯曲スタァライトを模したレヴューの中で変わらない世界、戯曲の展開のままで終わる中で達観した存在になり果て大場ななのループの否定から新たな変化を望んだ結果。
キリン=視聴者という観客ならレギュラーに入るはずのない彼女が第一話で見せた再生産は、とても満足のいくものなんだろうなーって。
特撮ヒーロー的に言えばライバルなのか、味方なのか、よくわからない奴が降臨する図なんだろうね。
ひかりを呼び寄せることで、発生した予想外のイレギュラーの歓喜だったんだろうなー。あの考察めいたキリンの口調というのは。
あぁー、前々から、そう思っていたけど、やっぱり、そういうあれやなーと
ななの「同じ舞台ばかりで飽きたのかな?」って言うのは、間接的にキリンの心情のアピールよね。
舞台は生き物であるからこそ同じ舞台は二度とない。しかし結末はどれも同じようなもの。
オーブダークが面倒くさい特撮オタクなんて言われ方してたけど、キリンの立ち位置は、そういうものなんだろうと。
なんか、ここまでくるとアレだよね。
勇者特急マイトガインってアニメがあるんですけど、キリンの基礎性質ってラスボスのブラックノワールと同じだよね。
でも、観客でありつつ製作者に回ったような、オーディションの審査員的なのは、そういうことなんだろうと。
でもスタァライトのファンの名前を舞台想像課っていうんだっけ?
あぁ、そうか。
ブラックノワールというよりも、キリンの立ち位置って考えようによっては、マジンガーZEROの真逆だわ。
マジンガーZEROっていうのは「マジンガーZが当たり前の物語でなければ気が済まない」神を気取った奴なんですね。
そこ行くとキリンは性質が真逆なんですよね。





一方的な結末しか認めない神と、多様性の結末を求める為に暗躍する舞台という生き物という名の神を気取った存在。
前にも言ったけどキリンは視聴者=観客というよりも、舞台という生き物が具現化した存在、代弁者としての立ち位置といったほうが個人的には凄い納得がいくものがあります。
生物として同じことの繰り返し、似た結末は飽きるからイレギュラーを欲する存在、全ては舞台、戯曲スタァライトの化身のエゴ。
純粋にキリンが視聴者等の代弁者なら、人の形をとればいいわけで。キリンという異質さを考えてみればキリンはスタァライトの化身そのものという言葉がしっくりくる。
舞台は客を楽しませてだからこそ、同じ展開、似た結末の繰り返しは望まない。最終回で視聴者に語り掛けたのは舞台の化身としての本音
神ではなく舞台という生き物を司る化身だからこそ観客を楽しませるにはどうするべきか考え、その為に、ななのループは正直キリンからすれば求めるものではないしイレギュラーとして神楽ひかりを派遣する。
あっさり飛び入りの華恋を許可したのも舞台を楽しませる可能性があるならという当然の判断か。
「貴方達が見たかったのは、これでしょ!?」っていう悲劇として何度もモノローグとして伝えられている戯曲スタァライトの物語、それを模したレビュー、どうせ結末は悲劇的なものになるんだろう。という暗示を植え付けておきながら、あの展開になるからこそキリンの高揚と視聴者の感動が重なるんよ。
キリンが舞台という生き物の化身なら、観客を喜ばせることを第一とするのなら愛城華恋という予定になかったイレギュラーを簡単に受け入れるのも納得できる。達観した喋り方も。
本来の観客なら悲劇的な戯曲スタァライトを望む。
しかし化学反応による変化を望むキリンの姿、まるで生き物の進化のようなのです。
ブラックノワールとか、マジンガーZEROを通して、かつて自分の言ったキリンは舞台という生き物の化身という一つの可能性に辿り着く(つ=ω=)つ
ある種、キリンも舞台という生き物の化身でありながら、観客目線に立てる存在だからこそ、キリン=視聴者という目線もおかしくはないんですわな。だから、両者はシンクロする。
だから「少女☆歌劇レヴュースタァライト」は何よりも美しい。