大学病院と言う名の人の醜い権力闘争が起きる場所。そういうことで、白い巨塔です。
久しぶりに見直したら、とても面白かったのでね。
何て言うか、この感動をどうのこうのって奴ですよ。
まぁ、面倒くさいので、とりあえず、見直したら、凄い面白かった!!って言う、スタッフの力もあるけど、それは原作を執筆した山崎豊子先生の力量と言うのもあるのだろう。
まぁ、どういう粗筋化は、それは、これを読む前に、白い巨塔のwikiやら、そう言うのを参照すべき。
私は、主人公の財前五郎を演じる唐沢寿明って俳優を本格的に知って好きになったのは、このドラマからだし、その役者陣の、このドラマに欠ける情熱と言うのを肌で感じることが出来る程には凄い力量のあるドラマだったりする。
どうでもいい話、実を言えば白い巨塔で一番好きな登場人物は財前五郎の義父である又一。恨みと財前五郎に対する過剰な愛情が入り混じって何にでも一定の人以外は傷をつけずに手を染めるスタイルは見ていて気持ちがいい。医者の矜持を持ちながら、醜く義理の息子の為に俗物に望んでなる姿は見ていてかっこいいんです。
大学教授の名誉は欲しいが為に財前五郎という株に投資したけど実の息子のように可愛がって自分が悪く言われようが金にものを言わせて俗物に自ら財前五郎の為になろうと暗躍して、財前五郎の死に誰よりも泣いた義理の父親である財前又一のかっこよさがあるんです。西田敏行の怪演を通して是非とも見ていただきたい登場人物。
ある意味、この男が白い巨塔における男の象徴でもあるし、同時に、男の美学を貫くカッコよさがある登場人物なんですよね。
そして見どころは下記の三つですかね。
何が面白いか。って言うと、この三つに集約されていると思うので読んでほしいです。
まずは、主人公現実主義者で出世欲の強い財前と、そのライバルである理想主義に走る里見の二人の関係。俗物の毒に浸かって傲慢になって人間性を失う財前も見ていて嫌だけど、正直、里見も里見で理想主義すぎて嫌になるよね。
白い巨塔を見ていると、なんか、どっちも嫌だ!ってなるwただ、里見は家庭人としては理想の人そのもののような部分もあるんだけどね。小説版だとー……まぁ、そこは読んでみて。
白い巨塔の世界において、里見の理想主義というのは非常にかっこよく映るものではあるけど、これは、これで気持ち悪いというのは正直、ある。
俗物的な物こそが世間であるからこそ、それ以上に里見の人間離れしたような思想の理想主義的な部分は見ていて違和感というか、そう言うものが強いんよね。
この白い巨塔における里見に対する違和感は仮面ライダー龍騎における、城戸真司や手塚のような存在に近い。
とはいえ、城戸真司の立場は白い巨塔だと柳原が、それに近いんだけどー
財前は、どれだけ地位ある名誉を持ったとしても、作中では一度も里見に勝利をしたことは無い。寧ろ、どれだけ現実を訴えても里見は、それでもと理想を突き進み、己の考えを堅実に求とめて紛争する。彼にとっては何があろうとも優先すべきは患者と言う医者としては非常に高潔な精神の持ち主として君臨している。
しかし、現実主義の財前は、そう言う理想を持ちながらも、それを為すには地位が必要だと解っているからこそ汚い工作を行い、東教授に喧嘩を売りながらも教授の地位を確実に狙い、策謀を張り巡らせる。
さらに白い巨塔の医者サイドのドラマと言えば佃と安西とか正直、あの小物のドラマが見ていて一番醜いドラマも魅力がある。それが寧ろ、財前を調子づかせると同時に、財前の中にある確かな技術からくる者であることは解るけど、それが逆に財前の人間性を奪っていったのではなかろうか?と、今にして思えば、考えることが出来ます。
所謂、あの二人の中にあるのはウルトラマンジードにあるような伏井出ケイのようなベリアルへの忠誠心のみであると同じように、佃と安西の場合はケイのように財前への忠誠心しか無いんだよね。所謂、大学病院の毒が財前から理想と人間性を奪ってしまった。そういっても過言ではないです。
そして、財前への忠誠心というのが非常に醜く映るのが、権力闘争の本来の姿のようにも見えるわけです。
だからこそ、里見は、教授になった財前を
「永遠に祝うことは無い。」と告げるシーンは個人的に一番好きなシーンなんです。友人として見ながらも思想が違うからこそ財前に反目するわけではなく、財前を受け入れつつ、自分の意見をはっきり言うからこそ財前は里見に永遠に勝てない。何処からしらで財前は里見を屈服させたいという思いがあるからこそ、それが無い里見には永遠に勝てない二人のドラマと言うのが非常に面白いんです。財前が徐々に地位を確実的なものにしていくにつれて人間性というか、財前の中にある傲慢性が強くなっていってるような気がする。
そして、徐々に財前が人間性を失ってしまっても、友人である財前を見捨てることのない優しく見つめながらも厳しく意見する里見の暖かさが持つドラマにも注目してほしい。
だからこそ、財前が実は里見を一番信頼しているということが解る最終回のとあるシーンは作中最高の名シーンと言えるかもしれません。
次は前半後半構成で、まずは
前半は教授選抜戦における人の腹の探り合いですね。
えてして、前半の見どころと言うのは人の傲慢さと大学教授という地位を求める者達の醜さである。さて、作中では男たちの
大学病院内部のドラマはライバルの里見と主人公である財前の、理想と現実と野心、そういう部分が所謂、熱い男同士のドラマとしても、その裏にある人の裏と表、理想だらけの気持ち悪さ、旧体制が生む現実主義から生まれる傲慢さの絡み合いが物凄く面白いと自分は見ているんだけど、実は、それは物凄く醜いことであるというのが解る。
大学病院サイドも、それだけじゃないけどね。
熱さの中にも、無論、俗物は多くいる訳だし。鵜飼とかね。東教授も医師としては立派ではあるけど、清廉潔白って言うと、そうじゃないほどには、大学病院構想の毒に浸かってしまったような醜さが財前への嫉妬からも見て取れるし。
何故、男同士のドラマを、こう暑く見られるのに、それが醜いのか。それは、教授婦人が主催する集まり、くれない会が、それが醜いからである。
くれない会の様子を見ていると、大学病院の内部の様子が男の野心と理想の渦巻く場所だからこそ鮮烈に輝かしく見えることもあるんだろうけど、くれない会は男女関係ないのかもしれないけど、そういう権力にしがみつく人の業しかないから恐怖と醜さしかない。
最低限の医師としての心得があるからこそ所謂、美化された醜さというか、そういう部分が面白いんだけど、くれない会って、そういう部分を考えると信念もなく権力を持つ夫にしがみつく寄生虫のような醜さを諸に出している部分があるからこそ、そこにあるのは鮮烈さでも何でもなく醜さしか感じないのよ。
医師としての心得や男特有の野心を交えた部分が無い、権力闘争と言うのが、あの、くれない会のドラマの中でしつこいほど描かれているわけです。
くれない会の人間の怖さって言うのは第三話における高畑淳子の演じる東政子と若村麻由美演じる財前杏子の絡みを見てればいやでもわかる。
そして、それを東教授の娘である佐枝子が侮蔑した表情で醜い教授戦と後に口にしますが、実に、それが的を得ているわけですね。
医師としての信念がある大学病院サイドのドラマ、医師としての信念が無いくれない会の女たちのドラマを両方、描くことで美化されているように見える医師側のドラマが実はどれほど醜いことなのかというのを描いているようにも思えるし、そういう意図があるんだろうなーってんなことを思う。
そのドラマの見せ方は見事ですよ。
そして、そんな東教授の野心の為に出された、他の大学の候補である菊川教授って出番は少ないけど実に、この財前と東教授の嫉妬から来る関係やら、この物語という権力闘争から始まる旧体制に対する皮肉と虚しさを非常に文学的にとらえているのが印象的で好きな登場人物なんだけどー、それは、どこか日本社会に対する愚かさを嘆いているようにも見える。
そして、この中における財前の野心に取りつかれて人間性を失って醜い俗物になっていく様のドラマを見ているのは、ある種の究極の人の醜さを描いた頂点の一つであると思う。
ただ、何故、この教授選抜戦が起きたのか。って言うと、そこは、東の財前に対する嫉妬なんですよwどういうこと?嫉妬で、ここまで?ってなるでしょうけど、そこは原作でもっと深く掘り下げているので見てほしいです。
東がもっと素直だったら、財前もまともに育ったんじゃね?とか思う程に、醜い嫉妬なんですよね。自分の不在中に雑誌の取材を受けるなど、自分を蔑ろにする助教授・財前の傲慢な性格を非常に嫌ったり、そういう醜い感情のぶつかり合いが、財前を作り上げてしまったと思うのはー私だけでしょうか?東の人としては醜いけど医者として高潔な性格・教授としての矜持・また財前への複雑な嫉妬にも似た感情をおおいに逆撫でしたことが要因となっているんですね。
二人は全くの真逆なんですよね。
だから、この二人の確執が、ドラマの始まりと財前を狂わせた要因でもあるんです。


上川隆也演じる関口弁護士、凄い好きなキャラよ。後半を彩る大事な登場人物です。
そして、後半の財前裁判編ぶっちゃ、裁判は財前が最終的に負けます。野心の肥大化と権力に取りつかれて初期の志を財前は失ったように見える財前を見るところからスタート。
里見も言ってたけど、昔は、実直さが強かったんだろうけど。
そこは、やっぱり財前又一や、其々の大学病院サイドの毒に汚染されてしまった結果が裁判編における財前五郎の姿を作り上げてしまったことのなのだろうと思う。そういう部分が全開な財前が見ることが出来ます。人と言うのは野心や権力と言う毒に塗れてしまうと、ああもなってしまうのだろうという財前の図は見ていて苛立ちや恐怖を覚えてくるほどです。
ここから、財前五郎の人間性は失われてしまいます。
財前からすれば「自分は手術をしてやったんだ。」
そんな傲慢なセリフに満ち溢れた台詞が多くなるんですよね。そして、彼の野心が最高潮になって、新たな野心を手に入れてから、余計に、その俗物感は名誉欲に取りつかれて肥大化していく様が演者唐沢寿明の演技からも見て取れるのです。なぜ、裁判が起きたのか。
それは財前の傲慢さから生まれた医療ミスが原因で自分が手術をした家族の夫である「佐々木庸平」を強行に進めた手術や、じっくりと診察しなかったことによって殺されてしまった家族の怒りを買ってしまったのです。苦しんでいる間に、財前は何をしていたか。それは里見の佐々木に関する様態のメールすらも全て無視して自分の地位を上げるためにワルシャワで公開オペなどをしていたのです。そこで、実は財前はアウシュビッツに行くのですが……まだ、この展開が財前にとって重要なイベントになるのですが、そこは、見てからのお楽しみですね。
とりあえず、このシーンにおける財前の傲慢さは患者である
「佐々木庸平って誰だ?」って台詞から見て取れるし。権力と野心に執りつかれすぎて、あの台詞だし。更には裁判編の合間のにおいて
「私は何千、何万と命を救っている。一々、患者の顔など、覚えておらんよ。」と鼻で嘲笑するシーン、
「ガンを切除しようとしたんだ何が悪い!!」など、財前の台詞一つ一つに集約されているんです。
そして財前の傲慢さから裁判が起きて振り回される人たち。
財前がもっと患者に気を遣うようにしていれば、里見は財前を医者として真っ当になってほしいからという願いから裁判に出頭しますが、そこは、人の権力と欲望が赴く場所。大学病院を追われてしまうのです。家族も、こういうことになることは無かっただろうなと思う。
この裁判編の里見の証言における水野真紀の表情の演技から見て取れる、財前に対する憎悪と、理想に進み過ぎる夫への解っている筈の、やはりという、そういう失望ら人としての感情というのが、このシーンから感じる。
その財前の醜さの象徴が、研修医である柳原を道具としてしか見なかったと思わせるセリフの一つ一つだろう。
佐々木一家に関わって罪悪感に苛まれる柳原を見て教授選抜戦の時は普通に見ていたというのに、ここから徐々に道具として見ているような部分が非常に大きく見えてきます。家族に対する情すらも己の道具にしてしまうという時点で、財前は、どのみち、裁判に負けていたような、そう言う展開になっていたような気がする。人を人として見ていなくなっているんですよね。全部、自分の道具に見えてしまう。
地位や名誉と言う毒素に浸かってしまったという。
そして、この毒を取り除いたのが癌であるというのも大きな皮肉です。そして、がんになるだろうな。って思わせる描写も一話目から忍ばせているのも、そこは見所ですね。
さて、まぁ、この第二部から柳原と言う研修医が非常に大きなキーパーソンになるんですが。さっきも言ったとおり、財前が柳原に対して自分の中の親への情を道具として使ってしまった時点でアウトである気がするんですよね。
思えば、この作品の終盤において所々、佐々木庸平の姿が財前に被って見えるんですが、それは癌が見せた財前の良心を思い起こさせるものなんだろうな。って思いますね。
また、財前が柳原を最後まで体のいい道具として見なかったことからも、そう言う部分は見て取れる。12話の、この柳原にかけた財前への他者を見下した言葉が、後日談SPで柳原が未だに浪速大学にいる理由なんだろうなーとか思うと皮肉なんですよね。
最終的に柳原を道具のように人を道具としてしか見ていなかった、財前の中にある傲慢さが裏切りを招いたと思うと地位を得てしまった人間が気付かぬ内に背負う哀しみを財前は持ってしまった気がする。
財前は裁判における柳原の行動を裏切りとして捉えた感じだけど、でも、結局、財前が柳原を道具として利用してきたことに対する言ってしまえば人を道具として扱ってきてしまったことに対する代償でもあるような気がする。
あそこで財前が初めて自分が道具としてしか見てなかったことを知った気がする。
偉くなりすぎると人を道具として見てしまう悲哀というか、そう言うものを感じる。

それを象徴するのが愛人ケイ子と財前五郎の実の母である「きぬ」が、幼い頃の理想に燃えていたころの良い意味で純粋だった財前を話すシーンだろう。
あそこに財前の権力闘争に取りつかれていなかった純粋に患者と向き合う頃の財前の輝かしさが溢れていると思うんです。
そして癌になったことで皮肉にも失った人間性を取り戻したり、鵜飼の醜さを知って自分は、ああなっていたのだということを理解してしまう、この展開は因果応報とはいえ辛い。そして述懐する。大きな病院にして、自分が偉くなることで全ての患者を救いたいと吐露するシーンは、根底には、きぬが語ったような理想があったことが窺えるけど、大学教授戦と言う醜い名誉と言う毒に取りつかれている間に手段を間違えてしまったことが窺えます。
癌になったことで財前はやっと東の言葉の意味や、里見の言葉の重さ、そう言うものを知って、でもそれが手遅れだったという哀しみ。
「癌になって死が近づき、達観すると思っていた。」と自嘲するシーンがあるんですが、達観したからこそ財前の中にある人間性が蘇ったとも、そういう風に取れると私は思いますね。
そして、不治の癌になってしまった財前は最終的にお亡くなりになります。
ただ、その中にあった輝かしい出来事は本物であり……
いや、そこにおけるドラマの中で何を感じたかは、それは皆さんの答えの中でしょう。
ただ、最後の遺書における財前の言葉それは、間違いなく権力闘争に塗れて名誉や地位と言う毒に侵されていない純粋な医師である財前五郎の言葉そのものだった。
そう思いますね。
思えば、このドラマは、何だろう。
人の求める地位や名誉のために、どこまでも人間性を捨てられる、その過程の醜さを美しく描いた作品だと私は見ているんです。
それが、財前五郎の一生であることは言うまでもないと思ったりします。
底にあるのは、ただの己のエゴ。その財前五郎のカウンターとしての、ある種、山崎豊子先生は、それを皮肉る患者に対してどこまでも理想を貫く里見と言うライバルを出したようにも思えます。
里見が権力闘争の中にいても何処までも現実離れをした理想を追求する究極体なら、財前は何処までも現実の欲を追求する究極体とも言える存在なのです。だからリアル的な財前を応援したくもなるし、一昔前の特撮ヒーロー的な思考の里見を応援したくもなります。
ある種、永遠に交わることのない重油と清水のような関係である、この二人の関係を中心としたすべての登場人物が踊り惑う。
地位と名誉のために、どこまでも貪欲になれる、そう言うドラマの中でもどこまでも理想を貫く。相反する二人の思考が産み出す全てが躍るドラマ。
それが、白い巨塔の肝なのだろうと見ています。
いや、これだけじゃないんですけどね。
他にも語りたい登場人物はいっぱいいるんです。でも、白い巨塔と言う作品の面白さを語るのであれば、全てにおいて、この三つの全てに集約されていると思います。
そんな感じで、皆さま、一度、見ても後悔はないドラマだと思います。
では。